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清涼寺山門住友家菩提寺・清涼寺
清涼寺の地には嵯峨天皇の皇子、源融(みなもととおる・光源氏のモデルといわれている)の山荘・棲霞観(せいかかん)があった。源融の没後、阿弥陀三尊を安置して棲霞寺とした。これが阿弥陀堂のはじまりである。

中国の宋に渡り、五台山清涼寺で学んだ奈良東大寺の奝然(ちょうねん938~1016)は、帰国後、中国の宋で模刻した釈迦如来像(*)を本尊とし、棲霞寺の背後の愛宕山を中国の五台山に見立てて、この地に伽藍を建立し、清涼寺と号しようとするが、その願いはかなわず、没した。その後、奝然の高弟・盛算(じょうさん)が釈迦堂を建立し、奝然が請来した釈迦如来像を安置。五台山清涼寺とした。これが清涼寺の始まりである。

保元元年(1156)24歳の法然上人は、民を救う仏教を求め、清涼寺・釈迦堂に7日間参篭する。上人は金色に輝く釈迦如来像を前に、専修念仏に生きることを誓うのである。
人々は釈迦牟尼と同じ大きさの釈迦如来像に篤い信仰を寄せ、清涼寺は「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれるようになった。

現在の本堂(釈迦堂)は、たび重なる焼失の後、元禄14年(1701)に徳川5代将軍綱吉と、その母桂昌院の発願により、住友吉左衛門らの寄進によって再建された。清涼寺は現在でも住友の菩提寺である。また初代政友は晩年、本堂裏に雙軒庵(そうけんあん)という「いおり」を建てて隠棲したが、これは婿養子に迎えた二代目友以の財政支援があったためにできたことで、仮に銅吹がなければ隠棲などできず、今日の住友もなかったであろう。本堂裏に同庵跡の石碑が建っている。

境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇の墓があり、また昭和55年(1980)大阪城三の丸から出土した豊臣秀頼の首が納められた首塚もある。

この釈迦如来像は国宝で、生前の釈迦37歳の生き姿を刻したものである(そのためこの本尊は人々から尊崇された)。奝然が模刻したものを日本に持ち帰った。約160cmで、目には黒水晶、耳には水晶が入れられてある。像内からは模刻された時に入れられた絹製の五臓六腑が見つかっている。


清涼寺本堂(釈迦堂)




本堂(釈迦堂)

住友の菩提寺。浄土宗。
たび重なる焼失の後、元禄14年(1701)に徳川5代将軍綱吉と、その母桂昌院、住友吉左衛門らの寄進によって再建された。また、享保7年(1722)5代友昌は、先祖追善のために多額の金銭を喜捨している。







夕霧祭

毎年11月の第2日曜日に清涼寺で挙行される。これは江戸時代に三名妓といわれた夕霧太夫を偲んで行われるもので、本堂前を現役の島原太夫が道中するものである。太夫道中のページはこちらからどうぞ。

清涼寺 豊臣秀頼首塚    清涼寺 豊臣秀頼首塚 



豊臣秀頼公の首塚

昭和55年(1980)大阪城三の丸跡から秀頼とされる頭蓋骨が発見され、清涼寺に埋葬された。埋葬の地に選ばれたのは、秀頼が慶長7年(1602)に清涼寺本堂(釈迦堂)を寄進したこによる。


 住友寄進 清涼寺
大方大修復寄進者御芳名
大修復に際し、住友吉左衛門以下、住友系20社が寄進している。本堂わきにひっそりと掲示されている。最上段左端
の書き始めが住友からとなっており、その重要な地位がうかがえる。。



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