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   島原遊郭 文芸碑めぐり


現在島原は民家が立ち並ぶ住宅地になっており、かつての面影を残すものは、今も営業を続ける、置屋とお茶屋を兼ねた「輪違屋」や、唯一の揚屋遺構である「角屋」、遊郭への出入口である「大門」のみになってしまったが、平成に入ると島原遊郭ゆかりの場所に石碑が建てられるようになった。
島原へ来た折には角屋や輪違屋だけではなく、これら史跡を訪ねると、より一層島原への理解を深める事ができるので、ぜひ訪ねてみてほしい。


   島原遊郭と吉原遊郭は、こちらからどうぞ。
   輪違屋は、こちらからどうぞ。

   *左側の画像をクリックすると拡大表示できます
 島原と文芸碑の地図

京都 島原遊郭の地図
  
 



 
 島原の「大門(おおもん)」

京都 島原遊郭の 大門
  
 
寛永18年(1641)に開設された島原は、当初掘と塀で囲まれ、東北角の大門のみであったが、享保17年(1732)に西の大門が設けられた。その後東北角の、大門は、明和3年(1766)に島原の中央を東西に位置する道筋(どうすじ)と呼ばれる道の東端である現在地に付け替えられた。
当初の門については詳らかでないが、享保14年(1729)には、冠木門であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門となった。嘉永7年(1854)の
島原東半分の大火では、この大門も焼失した。大火後、簡易な冠木門で再建されたが、慶応3年(1867)には、神社仏閣なみの本格的な高麗門として立て替えられた。これが現在の大門である。
昭和61年(1986)に
京都市登録有形文化財として登録された。
 (島原七つの文芸碑めぐり誌より)
 島原の「大門(おおもん)」:別角度から

京都 島原遊郭の 大門
  
 
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳などの文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が傾城されるほど活況を呈していた
(京都市の立て札より)

 歌舞練場跡記念碑

京都 島原遊郭の 歌舞練場跡記念碑
  
 
島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。
また、天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この大榎には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。約200年の樹齢を誇るがごとく、樹高は15m、幹周りも2mとなり、今なお神木としての威厳を留めている。
ここに、記念碑を建立し、花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻するものである。
平成13年(2001)11月吉日。島原伝統保存会。
 (全文碑文より)
 大銀杏

京都 島原遊郭の 大銀杏
  
   
京都 島原遊郭の 大銀杏
 
島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。その後明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内はこの大銀杏のところまで拡大されるには至らなかった。
昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められ、今では樹高(20m)、幹周り(3.5m)ともに樹齢300年相応の島原一の巨木となっている。平成13年11月吉日。島原伝統保存会。
(全文碑文より)
 島原西門碑

京都 島原遊郭の 西門跡碑
  
 
京都 島原遊郭の 西門跡レリーフ島原の入口は、当初東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。それは両側に門柱を立てただけの簡略なものであったが、天保13年(1842)に現在位置に移され、構えも冠木門に切妻屋根、さらに控桂に小屋根を設ける高麗門型となった。近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)、11月輪禍によって全壊した。3年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)4月、再度の輪禍に見舞われて、それも倒壊した。よって、ここに碑を建立して、島原西門の由来と往時の形容を刻するものである。
平成10年12月吉日。島原地区自治協議会。
*右の画像は文芸碑下に配置されている往時の西門レリーフ。
 (全文碑文より)
 島原住吉神社

京都 島原遊郭の 島原住吉神社
  
 
島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保17年(1732)祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。その規模は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、 広大な境内地を有した。爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。
ところが、明治維新後の廃仏毀釈により、神社株を持たない当社は廃社となり、祭神を歌舞練場内に祀ることとなった。
しかしながら、地元の崇敬心は篤く、明治36年(1903)には、船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興した。ただし、現在の狭い境内地となリ、正式社名も住吉神社は認められず、稲荷神社とされた。
平成11年(1999)には、社殿、拝殿を改修のうえ、社務所も新築し、境内の整備がなされた。同13年には、懸案の社名を島原住吉神社と改称し、旧に復することとなった。平成13年11月吉日。島原伝統保存会。
 (全文碑文より)
 幸天満宮(さいわいてんまんぐう)

京都 島原遊郭の 幸天満宮(さいわいてんまんぐう)
  
 
京都 島原遊郭の 西門跡から遊郭内を見る住吉神社の境内社である幸天満宮は、当初揚屋町の会所に天神の祠があり、それが、享保19年(1734)当所に遷座したものである。延享5年(1748)より、筑紫太宰府天満宮にならい、鷽替(うそかえ)の神事が営まれるようになった。それは、色紙、短冊などを持ち集まり、「鷽を替えん」と言いつつ取り交わす甚だ興あるもので、諸客の見物で賑わったが、明治以降は完全に廃れてしまった。
平成13年11月吉日。島原伝統保存会。
(注)この天満宮は上記の
島原住吉神社内にある
 (全文碑文より)

右の写真は過去にあった西大門入口から島原内を見たところの写真。直角に道路が右に折れているのが江戸時代後期からの特徴。左側に写っているのは上記の島原住吉神社。
 東鴻臚館址(ひがしこうろかん)

京都 島原遊郭の 東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)
  
   
京都 島原遊郭の 長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋 石碑
 
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽(りんゆうがく)を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。
平成13年11月吉日。島原伝統保存会。
 (全文碑文より)

右の写真は角屋の北東角地に建てられている、幕末の長州藩における尊皇攘夷派中心人物「久坂玄瑞」が角屋において密談を交わしたことを記した記念碑。


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