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天祐 神助
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四ツ橋跡
新町遊郭東大門に接続する「新町橋」のひとつ南側に位置する「
四ツ橋
」は、慶長5年(1600)に開削された西横堀川と元和8年(1622)に開削された長堀川が交差する場所のことをいい、北側の「上繋橋」東側の「炭屋橋」南側の「下繋橋」西側の「吉野屋橋」の四つの橋が井げた状に架かっていた。この地点が四ツ橋といわれる所以はこのためである。また、この場所は江戸時代、新町遊郭や繁華な東順慶町筋、心斎橋筋が隣接していたこともあり、浪花の名所として多くの人々に親しまれ、俳句に詠まれたり、納涼やお月見の場所として沢山の人で賑わった。当時の四ツ橋の様子は下記の絵図、「
摂津名所図会
(せっつめいしょずえ)」にも描かれているほどである。
その「四ツ橋」も、高度成長期を迎えた昭和30年(1955)頃に西横堀川が、昭和39年(1964)には長堀川が埋め立てられ、今では阪神高速道路の高架下となっている。
ところで現在の「四ツ橋」交差点は、かつて四ツ橋があった所より若干西側にずれている。かっての四ツ橋はそれより東側の阪神高速道路高架下であり、今その脇に
小西来山
(
承応3年〈1654〉~享保元年〈1716〉)
と
上島鬼貫
(寛文元年〈1661〉~元文3年〈1738〉)
の句碑が立てられてある。また、現在の四ツ橋交差点の中央分離帯には江戸時代の四ツ橋を縮尺表現したものが顕彰碑と共に配置されている。
摂津名所図会に描かれている四ツ橋
上の絵図は
摂津名所図会
(せっつめいしょずえ)に描かれている木橋の四ツ橋である。その名が示すように四つの橋が井げた状に架かっている。摂津名所図会は江戸時代の寛政8年(1796)から10年(1798)にかけて刊行されたもので、おもに大坂の各名所を挿絵と文章で紹介した、当時ベストセラーの観光ガイドブックである。舟や馬、大八車に荷を載せて運搬している人や、店で買い物をする人達で賑わっている様子がよくわかる。
四ツ橋と四つ橋?
道路の交差点名、地下鉄の駅名、四つの橋を総称する場合の表記は
「
四ツ橋
」(四ツ橋交差点、四ツ橋駅、四ツ橋)と、カタカナになり、道路の名前と地下鉄の路線名は「
四つ橋
」(四つ橋筋、四つ橋線)」と、ひらがなになる。
▼ 四ツ橋跡
四ツ橋交差点にある四ツ橋跡碑。本来の場所は写真に写っている高架の下。そこで長堀川と西横堀川が交差し、そこに四ツ橋が架かっていた。
左隅に写っている駒札の碑文は
こちらからどうぞ。
写真をクリックすると拡大表示します。
▼ 四ツ橋顕彰碑
四ツ橋跡には四ツ橋を描いた顕彰碑のレリーフも設置されている。
顕彰碑の碑文は
こちらからどうぞ。
写真をクリックすると拡大表示します。
▼ 四ツ橋を詠んだ二つの句碑
左の句碑は
上島鬼貫
のもの。
『後の月 入りて貌(かお)よし 星の空 』
後の月とは、旧暦九月十三日の夜の月のことで、中秋の名月で知られる旧暦8月15日の「十五夜(じゅうごや)」とともに「十三夜(じゅうさんや)」と呼ばれ、古来より観月の慣習がある。この句は
秋の9月13日、満月が沈んだ後の、浮かぶ四ツ橋の星空を詠んだもの。
右の句碑は
小西来山
のもの。
『涼しさに 四つ橋を四つ わたりけり』
この句は夏の暑さを涼む情景を詠んだもの。
写真をクリックするとそれぞれ拡大できます。
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