遊廓は室町時代の末に京都で起こったのが、その始まりであるといわれている。江戸時代になると公娼集娼制度が導入され、各所に散在する遊女は幕府が定める特定区画に集められた。大坂の新町、京都の島原、江戸の吉原、長崎の丸山など全国20カ所がその指定であった。なかでも新町、島原、吉原は3大遊郭と呼称され栄華を極めた。
しかし、いっけん華やかに見える遊女たちも、その多くが暗い過去を背負っていた。年貢上納のため、親の借金のため、不作による口減らしのため、孤児になってしまったため、……。そのような理由から廓に来た者がたくさんいた。江戸時代には人身売買が禁止されていたため、年季奉公という形をとりながらである。
北には梅田、南には道頓堀や難波、東には心斎橋、それら大阪を代表する経済地区の丁度中心に、かつて三大遊廓の一つと呼称された「新町遊廓」が存在したことを知る人は数少なくなったであろう。それもそのはずで、今ではこの場所が喧騒に包まれた近代的なオフイス街へと変わり、長い時間が経過する中で、かつての様相とは大きく変貌しているからである。今回はこの街がその昔、生と性そして人間の欲望と快楽、時に絶望に包まれた色里であったことを、当時描かれた絵図なども用いて、ごく簡単に振り返ってみたい。
(ヘッダーの画像は、長谷川貞信の「坂府新名所の内 新町鉄橋」) |
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*目次11の統計資料は、【各遊廓の貸座敷数累年比較表】・【各遊廓の芸妓/娼妓数累年比較表】・
【大正10年における遊客数及び遊興費】・【大阪市の赤線地区における業者数及び女性数】・
【大阪市の青線地区における業者数及び女性数】・【赤線地区及び青線地区以外の業者及び女性数】の六項目です。 |
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