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   新町遊廓の起源


長谷川貞信の「坂府新名所の内 新町鉄橋」遊女の歴史をさかのぼれば、高級役人を神社の巫女(みこ)が接待したことに始まるといわれ、古く大坂では江口、神埼の遊女が広く知られているが、それはさておき、豊臣秀吉による大坂城築城と城下町の造成、そして江戸時代における大坂の役による豊臣家滅亡後の大坂城と城下町の再建のために各地から人夫やそれを指揮する各藩の武士が多数大坂に集められた。男が集まってくれば当然これを慰撫するための色町が諸所にできてくるが、市中の風紀、治安上の観点からいえば問題を抱えることになる。そこで、江戸幕府はこれを一箇所に集める集娼制を取り入れる必要があった。そこで開かれたのが新町であったが、この地は今からは想像できないが、海辺に近い一面葦原の沼地で開発にはそうとうの困難を伴った。まず、加藤清正の家臣で木村又蔵の曾孫であるといわれる木村又次郎が元和2年(1616)に遊廓設立の申請を行い、寛永6年(1629)にようやく工事が落成すると、伏見町からここへ移転してきて営業を始めた。これが新町遊廓の始まりである。やがてこの通りは1.瓢箪町といわれるようになったが、これは、戦国武将木村重成が秀吉から拝領した瓢箪の馬印を又次郎が譲り受け、これを玄関に武具と共に飾ったことがその名の由来である。その後、2.佐渡島町(上博労町から移転)、3.新京橋町(阿波座から移転)、4.新堀町(川口又は福島ともいわれる、から移転)、5.吉原町(天満の葭原町から移転)がつくられ、これら5町を総称して「五曲輪」といった。さらにその後、6.佐渡屋町(高麗橋の佐渡屋忠兵衛が土地を拝領してつくった)、7.九軒町(玉造の九軒茶屋から移転)がつくられ、「廓七町」と呼称されるようになり、ここに新町遊廓は完成した。ちなみに「新町」と呼んだのは、ただ単に新しくつくられた町というだけで、別段とりたてて深い意味があるわけではない。
冒頭の画像は東大門を出た所の西横堀川に架かるアーチ型をした新町橋。


新町廓七町
 俗称   新町の町名  開設者  元の地
 廓七町       五曲輪    瓢箪町  木村又次郎  伏見町
 佐渡島町  佐渡島勘右衛門  上博労町
 新京橋町  ―  阿波座
 新堀町  ―  川口又は福島ともいわれる
 吉原町  ―  天満の葭原町(裏新町とも呼ばれた)
   佐渡屋町  佐渡屋忠兵衛  高麗橋
 九軒町  ―  玉造九軒茶屋


▼ 新町遊廓の地図

新町遊廓の地図
  
 
新町遊廓も島原や吉原と同様、その四方に水路(下水を兼ねていた)をめぐらし、竹垣(後に板塀となる)を立てて周囲の町家と隔絶させていた。地図の水色部分。江戸の吉原では「おはぐろどぶ」とも呼ばれ、黒い汚水となって滞留していたという。新町の場合、後述するように毎月廓内の同業者から清掃費を徴収していたようなので、下水は清潔に保たれていたのではないだろうか。画像右端、東大門の部分を上下(南北)に流れる溝(水路)のところには、周囲と隔絶するため溝に沿って板塀が立てられ、「塀の側(へのか)」と呼ばれていた。最下級の一見茶屋が建ち並んでいた。画像をクリックすると拡大表示。
▼ 砂場跡 『ここに砂場ありき』 (我が国麺類店発祥の地) 新町南公園にて

砂場跡碑「ここに砂場ありき」。日本の麺類店発祥の地。
  
 
本邦麺類店発祥の地・大阪築城史蹟  新町砂場
天正11年(1583)9月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多膨大を極めし資材蓄積場設けられる。ここ新町には砂の類置かれ、通称を「砂場」と呼びて、人夫工事関係者日夜雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正12年、古文書「二千年袖鑿」に、麺類店「いづみや・津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史蹟にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。
昭和60年(1985)3月11日
大阪のそば店誕生400年を祝う会建立、以上碑文から。



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