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 夕霧太夫


夕霧太夫その知性と美しさで名をはせた夕霧は、京の生まれで、本名は照。もともと京の嶋原・扇屋の太夫であったが、扇屋四郎兵衛が寛文12年(1672)嶋原から大坂新町遊廓へ移転するとき一緒に連れてこられた。このとき19歳であった。美しさもさることながら、歌・俳諧・茶・華・琴・三味線・踊り・書道など諸芸にも長じ、さらに加えて酒にも強かったため、全盛期には肩を並べるものは無く、吉原・三浦屋の高尾太夫、島原・林屋の吉野太夫と共に三名妓といわれた。
新町に来た夕霧の人気はとても高く、複数の客が揚屋待ちしているのが常で、その場合は引舟といわれた鹿子位女郎(かこいじょろう)を、待たせてある客の揚屋へ行かせて座の取り持ちをさせ、自分は座敷を勤め、これが終わると待たせておいた客の方へ回る工夫をした。これを他の太夫も真似るようになり、上方では太夫道中に引舟と禿を連れて歩くのがしきたりとなった。
この夕霧がいた時代が新町遊廓の全盛期であったといわれている。夕霧の他に、佐渡島屋の吾妻太夫、越中ふんどしで有名になった木村屋の越中太夫らが美と知性を競い合い、午後6時から門限の合図である「限りの太鼓」が打たれる11時までは、廓付近の新町橋筋、東順慶町筋、心斎橋筋は人の往来が絶えなかったという。



夕霧文
御なつかしきおりからよふぞ御しめし
あさからずながめ参らせ候
いよいよかわらぬ御やうす何よりめてたくおもひ参らせ候
        (途中割愛)
十七日 
きりより
八十さま
おんもと御返事

その夕霧も新町遊廓へ来て6年後の延宝6年(1678)正月6日に27歳で亡くなった。死後、夕霧とその愛人である伊左衛門との情事が数々脚本化され、それらは「夕霧物」として幕末に至るまで人気を博した。亡骸は扇屋の菩提寺である大阪の下寺町「浄國寺」に葬られ、戒名は「花岳芳春信女」である。
また、毎年11月の第2日曜日には旧財閥・住友家の菩提寺でもある清涼寺において「夕霧祭」が挙行される。これは夕霧を偲ぶもので、庫裡から続く回廊を島原太夫が歩き、本堂に入ると法要が行われ、舞が奉納された後、禿、妓夫、遣手を従え、夕霧太夫の墓地まで境内を太夫道中するというものである。


▼ 浄國寺

夕霧の墓所、浄国寺
  
 




夕霧の墓はこの「浄國寺」にある。
天王寺区の下寺町から上町台地の上に建つ生玉神社にかけては数多くの寺が集まり、一般的に寺町と呼ばれている。豊臣時代に寺町の形成が始まり、江戸時代の初期に大阪各所から寺が移転してきて完成した。付近には愛染坂など、天王寺七坂と呼称される静寂と自然に囲まれた坂があり、まるで京の都へ来たかのような錯覚さえ覚えるほどだ。

▼ 夕霧の墓

夕霧の墓
  





墓に刻まれた夕霧の紋
 

円筒形の墓で、正面に「花岳芳春信女」の文字が刻まれ、背面には「延寳6年午正月6日歿、 扇屋四郎兵衛」という具合に、夕霧没年と施主の名があり、側面には、摂津伊丹の俳人である鬼貫(おにつら)の「此塚は柳なくてもあはれなり」が刻まれている。
右の小さい写真は、墓の前面の水鉢に刻まれている夕霧太夫の紋。夕霧の墓写真をクリックすると拡大されます。



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