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 明治期の芸娼妓解放令


         戦前の新町九軒町貸座敷内部(神埼屋)
戦前の貸座敷の内部。新町九軒町の神埼屋。 
明治5年(1872)10月2日、明治政府は人身売買を禁じ、芸娼妓を解放する太政官達第二百九十五号を交付し、同月9日に司法省達第二十二号を発令した。いわゆる前者の「芸娼妓解放令」と後者の「芸娼妓の前借金の無効」である。つまり政府は前借金によって縛られた年季奉公人である芸娼妓が実質的に奴隷であることを認めた上で、人身売買を禁止して芸娼妓を解放するとともに、それまでの借金に関しては裁判で取り上げない、また返済を求めてはならないと通達したわけである。
しかし解放されたものの、職業訓練を行ったり、当面の生活を保障する経済的支援などの保護更生の措置が講じられなかったため、当然の成り行きとして彼女達の暮らしは成り立たなくなり、生活困窮の果てに私娼化し、町の風紀を乱すことが懸念された。このため直後に大阪府布達により、鑑札を交付された娼妓本人の自由意志において客を取り、既存の妓楼を貸座敷として届け出た上で、私的な契約関係の上で一個人の娼妓に使用させることは構わないとしてこれを認め、業態を変える形で遊廓は再興した。これにより、芸娼妓解放令は事実上形骸化され、さらに鑑札制度と貸座敷制度によって娼妓達は公的に管理されるようになり、公娼制度が作られていくことになる。同様のことは、東京府においても「貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則」が発令され、遊廓は復活しているが、そもそも「芸娼妓解放令」は人身売買を禁止したもので、売春そのものを禁止したものではなかったのである。しかし人身売買が禁止されたとはいっても、明治から昭和に至るまで女衒と言われた周旋業者により、あるいは遊廓の置屋の者によって貧しい農家などから、娼妓として地方から連れてこられ、前借金を背負わされて春をひさぐ者も多かった。これは新町でも同様であった。一見華やかに見える娼妓達も、実はその多くが悲しい辛い過去を背負っていたのである。(*原田美枝子主演の「大地の子守歌」を観て、水上勉の「五番町夕霧楼」を読まれたし)

このような時代の流れから新町でも太夫、天神といった遊女の階級は解体され、鑑札を交付された娼妓が、揚屋や天神茶屋などの茶屋から衣替えした「貸座敷」で、娼妓個人の自由意志において客を取るという形態に変わった。東西の大門、塀、廓を覆っていた溝は撤去され、外界との往来は自由になった。

大阪における貸座敷は甲部貸座敷と乙部貸座敷に大別された。甲部は置屋からお茶屋(お茶屋=貸座敷:正式には呼揚貸座敷)に娼妓を送り込む方法であり、これに属するのは新町、堀江、曾根崎新地(曾根崎遊廓は明治42年の大火後、日本基督教婦人矯風会の林歌子を中心とした廃娼運動により翌年廃止された)および南地五花街(阪町、宗右衛門町、九朗右衛門町、難波新地、櫓町)であった。乙部は「てらし(居稼)」とも称され、貸座敷に住み込んでいる娼妓に限り、客の求めに応じることができ、他より招く事はできなかった。これに属するのは松島、飛田、新町の一部分であった。また、客が娼妓を選ぶ方法は店先に揚げてある写真の中から選ぶというものであったが、大正5年(1916)に禁止されるまでは、娼妓達を格子の内側に座らせ、外から客が見立てる「張見世」の方法をとっていた。

新町には芸妓が席を置いている検番を通し、予約をした上で呼ぶ、一見お断りの格式の高い「本茶屋」と、一見を相手とし、置屋を通して娼妓を呼ぶ「一見茶屋」、引手婆さんが往来を歩く遊客に声を掛けて店に招き入れ、娼妓と遊ばせる「てらし(居稼)」の三つが揃っていた。



▼ 張見世の様子

吉原の張見世
  
 





明治時代末期の吉原遊廓張見世の様子。大正5年(1916)に人道的見地から禁止されるまでは、娼妓達を格子の内側に座らせ、外から客が見立てる「張見世」の方法をとっていた。禁止後、娼妓の選択方法は店先に揚げてある写真の中から選ぶ方法に変わった。
▼ 新町の踊子たち

新町の踊り子たち
  
 







新町の年端も行かぬ娘たち。
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▼ キリンビールの広告

戦前のキリンビールの広告
  
 



戦前のレトロなキリンビール広告。スタウトとは、「濃色麦芽を原料の一部に用い、色が濃く、香味の特に強いビール」のこと(キリンホームページより)。キリンスタウトは76年間顧客から支持され続けたものの、「一番搾り スタウト」の発売により、製造中止となった(昭和7年【1932】~平成20年【2008】)。「キリンレモン」は昭和3年(1928)に発売された、歴史のある清涼飲料水。
▼ 大阪の高級料亭 「吉兆」

戦前の料亭「吉兆」の広告
  
 


昭和5年(1930)、ここ新町において吉兆創業。平成3年(1991)に創業者が子供達に暖簾分けをし、大阪高麗橋の本吉兆、大阪の船場吉兆、京都吉兆、神戸吉兆、東京吉兆が独立する。しかし平成19年(2007年)、グループ内の船場吉兆による消費・賞味期限偽装、食べ残しの再利用等が発覚し、翌年船場吉兆は廃業の後破産する。これにより吉兆グループのブランドイメージ、信用は大きく傷ついた。
左の画像は昭和10年(1935)のもの。
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▼ 新町の料理店広告

戦前の新町遊郭の料理店広告
  
 




新町越後町宇和島橋筋東の「川竹」の広告。この店は今里新地や住吉新地にも店を構える、廓に特化して出店する料理店のようだ。しかし、当時のことだから和服だろうし、そのいで立ちで洋食や中華料理を、しかもスタンド式で食べる店内の様子はどんなだったろう。想像するだけで面白いではないか。



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