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 船町渡船場


 
船町渡船場(ふなまちとせんじょう)
 大阪渡し船 船町渡船場 待合室
船町渡船は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結んでいます(岸壁間75m)。この渡船がある「木津川運河」は大阪港の第1次修築工事(明治30年〈1897〉~昭和3年〈1928〉)による埋立地として「船町」「鶴町」「福町」が造成されたのと合わせて、木津川と尻無川を連絡するために昭和4年(1929)に開設されました。
昭和初期には、渡船の北岸の「鶴町」には、市電鶴町車庫や外資系の自動車工場等があり、南岸の「船町」には伊丹空港の前身である木津川飛行場や造船所等がありました。
(渡船場の表示板より。写真は拡大できます。)
* 船町渡船場では、川幅が狭いことを利用して、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していた。



木津川飛行場
 大阪 木津川飛行場 記念石碑
わが国の近代航空技術は大正7年(1918)ごろから急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年(1922)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。
木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923)ごろからです。昭和2年(1927)に着工し、昭和4年(1929)には未完成のまま東京・大阪・福岡間に一日一往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であったため、昭和9年(1934)の八尾空港、昭和14年(1939)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年には閉鎖されました。
(木津川飛行場跡表示板より。写真は拡大できます。)
 
1945年(昭和20年)7月24日の大阪大空襲により、木津川飛行場と伊丹飛行場は100機を超える米軍機により爆撃を受けた。その後、米軍機は此花区の住友金属工場と大阪陸軍造兵廠にも爆撃を行い、それらの軍需工場は壊滅的な打撃を受けた。 



鶴町側にはかってGMの工場があった。昭和2年(1927)、大正区鶴町1丁目付近に資本金800万円で日本ゼネラルモーターズ株式会社が設立される。月産2000~2500台の生産能力があり、生産1号車はシボレーで、以後ビュイック、オークランド、ポンティアック、等へと続く。昭和16年(1941)までの累計販売台数は15万台にのぼったが、昭和1中山製鋼所6年(1941)、第二次世界大戦により操業が中止される。
一方、船町側にある中山製鋼所の工場群はかって、松田優作の遺作となった映画「ブラックレイン(出演:松田優作・高倉健・マイケルダグラス:平成元年〈1989〉公開)」のロケ地にもなった場所である。その中山製鋼所は大正12年(1923)兵庫県尼崎から現在の船町に移転。現在に至るまで大正区内最大の企業として活動しているが、過当競争による収益の圧迫で、平成14年(2002)7月10日に第1高炉を休止、続いて同年7月23日に第2高炉を休止、ここに63年間の高炉操業に終止符を打ったのはまだ記憶にも新しい。
写真は「ブラック・レイン」のロケ地にもなった中山製鋼所がある場所。写真は拡大できます。


    フォト(拡大表示できます。)


大阪渡し船 船町渡船場から鶴町を望む 大阪渡し船 船町渡船場に描かれた壁画 大正区側の新木津川大橋 ループ部分
北岸の鶴町を望む 渡船場に描かれた壁画 大正区側の新木津川大橋

木津川飛行場 昭和4年 木津川飛行場 昭和初期 木津川飛行場のあった場所の地図
木津川飛行場 昭和4年 木津川飛行場 昭和初期 木津川飛行場の場所 昭和4年



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