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天祐 神助
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安治川トンネル(安治川隧道)
安治川トンネル(安治川隧道)
安治川隧道(あじがわずいどう:
一般的に安治川トンネル
と呼ばれる)が完成するまでは、
ここに「源兵衛渡し」と呼ばれる渡しがあった
。その名のとおり源兵衛という人が営んでいたことが由来であるが、今でもここの交差点名を「源兵衛渡」というのはその名残である。
この
付近には10カ所ほど渡しがあった
が、その中で
最も利用者が多かったのが源兵衛渡であった
。大正から昭和にかけてはその
利用者が年間300万人以上に達した
ほどで、折からの工業化の進展に伴う交通量の増大も含めて、
これに対処するため
に大阪市の第二次都市計画事業の一つとして、ここに
海底トンネルが造られることになった。
橋の架設は大型船の航路を確保するために水面からの橋の高さ(桁下)を確保する必要があり、当時としてはその技術が無かった
のである。
昭和10年(1935)に着工された工事は、250万円の巨費を投じて昭和19年(1944)9月15日に完成した。トンネルの
延長80.6m、有効幅員11.4m(2車線+歩道)、深さ16.94m
。
この
隧道は沈埋管式
であるが、これは陸上部で造った鉄骨・鉄筋コンクリート製の胴体部分を船で曳航して現場まで運び、あらかじめ川底に掘っておいた溝に沈めて土で埋める方法である。
日本初の沈埋工法で造られたこの隧道は、両岸とも車両はエレベーターで、人は階段(階段数片岸計93段)またはエレベーターでトンネルの胴体部分に降りて対岸へ渡るもので、エレベーターは車両用、歩行者用(現在1基)とも各2基づつ備えていた。
また、この隧道完成により、安治川筋の源兵衛渡、二丁目渡、二丁目荷車専用渡、玉船渡の4渡船場が廃止となった。
なお、
車両用のエレベーターは
老朽化と、下流に安治川大橋(国道43号線)ができたことによる利用車の減少により
昭和52年(1977)に閉鎖
されたが、
エレベーターを利用しないトンネルを造る工事計画もある
。歩行者用は今なお多数の人たちで賑わっている。車両は有料であった。
余談になるが、私がまだ幼かった頃、自動車の横に乗せられて利用したことがあるが、乗用車であれば2台エレベーターに乗ることができ、首から大きな黒のガマ口を下げた職員が料金を徴収するのと引き換えに、領収書を手渡していたような記憶がかすかにある。
最後に
交通量調査
を記して終わりにする。昭和48年(1973)の調査では、1日に歩行者5300人、自転車1600台、自動車1100台となっている。
(写真は「ほんた」から転載。拡大できます。)
現在は人と自転車専用のトンネル
車両用のエレベーターは老朽化に伴い閉鎖されたが、自転車と人専用のエレベーターは現在も無料で運行されている。エレベーターによる昇降は運行時間が定まっているが、階段を利用すれば24時間対岸へ渡ることができる。但し、自転車は不可。
通路の幅は約2m、長さは約80m。朝と夕方は利用する人が特に多く、1時間当たり約250人以上となる。
朝夕のラッシュ時以外は利用者がエレベーターを操作し、防犯のため警備員がトンネル内を監視(右の写真)している。
以前は市の職員が北側と南側のエレベーターを操作していたが、人件費削減を目的として、今は利用者がエレベーターを操作し、警備は民間が行っている。(写真は拡大できます。)
フォト(拡大表示できます。)
トンネルの中
安治川トンネル車両部分。西区側から撮影。ボンネット・トラックが見える。
源兵衛渡船場
大正11年(1922)の写真。
此花区ホームページから転載。
現在のトンネル
西区側から撮影。右手に阪神西大阪線の鉄橋が見える。
エレベーター全景
安治川を挟んだエレベーター。
西区側から撮影。
木製の窓枠
川に面したガラスは木製の枠で固定されている。大阪府庁にも木製の枠で固定されたガラス窓がある。
トンネル銘板プレート
車両側上部のプレート。「安治川隧道」
「昭和十九年九月十五日竣功」と刻されている。
エレベーターの位置表示
車両部のもの。
階段利用者用の入口
階段の様子
清潔感のある階段。
階段を降りた所
階段をを降りると、エレベーターの所に至る。階段の段数は地上から93段。
エレベーターの利用者心得
夜一人で階段を降りていくのは、かなりの勇気がいる。怖い、怖い。
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