Tenyu Sinjo.jp
   天祐 神助  トップページ  住友財閥史  大阪ウォーク  マイダイアリー   いちびり  プロフィール

 昭和山 (大阪市大正区)



昭和山
 
千島新田は、東成郡千林村(現旭区)の岡島嘉平次により、明和5年(1786)から順次開発されました。地名は千林村の「千」と、姓の岡島の「島」をつなぎ合わせて「千島新田」と命名されました。
大正時代の千島町一帯は、西区から移転してきた木材業者により、関西随一の木材市場となり、木材の集積のため、木津川と尻無川を結ぶ大正運河(延長1963m・幅45m)が大正12年(1923)に完成しました。住之江区の平林貯木場へ移転するまで、この運河を中心に貯木池として利用されていました。
昭和44年(1969)9月に発表された「千島計画」は、区のほぼ中央、もと大正運河や貯木池のあった千島町一帯に「港の見える丘」を造るという大規模な計画でした。この人工の山は地下鉄工事の残土など、約170立方メートル(ダンプカー57万台)の土砂で造られ、標高33mで「昭和山」と命名されました。
千島公園(11.2ha)の中心に位置するその頂上からは、六甲や二上、葛城、金剛、和泉の山並とともに港大橋、なみはや大橋、千歳橋、新木津川大橋、千本松大橋などが眺められ、麓には「せせらぎ」も整備され、その恵まれた自然は区民の憩いの場となっています。
(文章は顕彰碑より転載。)


    千島計画

千島公園の周辺には貯木場や木津川と尻無川を貫く大正運河など木材工業に関連するものがあったが、貯木場が住之江区の平林に順次移転し、それと一体となっていた大正運河も、輸送が海上から陸上へと変化するなどして、その必要性は著しく低下した。このため大正運河の埋立てが決まり、昭和43年(1968)9月から始まった運河の埋立ては、昭和35年度(1960)から始まっていた貯木場の埋立てとともに昭和45年(1970)度に完了した。
昭和44年(1969)9月、大阪市の構想で、埋立てが完了した土地には「港の見える丘(標高33m)」を造り、これを中心に区役所、区民ホール、体育館、運動場、公団の高層住宅5棟・2272戸を設けるというものであった。
人口の山を造成するための工事は昭和45年(1970)年度から始められ、盛り上げるための土として、当時大阪万博(1970年3月開催)関連工事で進められていた地下鉄工事の残土など約170万m3(ダンプカー57万台分)の土砂が使用された。
昭和45年(1970)11月には山の中腹で植樹祭が行われ、「昭和山」と命名、さらに造園工事は進められ、昭和51年(1976)4月に昭和山を含む千島公園の工事は完成。これにより千島計画の全ては完了した。公団の高層住宅も昭和52年(1977)12月までに全棟が完成した。


 年月  事業構想
 昭和43年(1968) 9月   大正運河の埋立て開始。 
 昭和44年(1969) 9月   千島計画構想を大阪市が発表。 
 昭和45年(1970)11月   植樹祭が挙行され、人口の山が昭和山と命名される。 
 昭和51年(1976) 4月   公園が完成し、千島計画の全てが完了する。 
 昭和52年(1977)12月   公団住宅の全棟が完成する。 



    フォト(拡大表示できます。)

大阪市大正区の昭和山 大阪の昭和山から見える橋 大阪市大正区の千島団地
昭和山入口
いつもウオーキングやジョギングを楽しむ人で賑わっている。
体育館やグランドも併設されている。
山頂から見える橋 
手前から千歳橋(青色)、なみはや大橋(アーチ無し)、港大橋(赤色)。中央のビルは大阪府咲島庁舎が入るWTC。
千島団地
5棟からなる高層団地。管理住宅戸数は2236戸にもなる。それぞれ、9~15階建。



大阪ウォーク 渡し船の目次ページへ





Copyright © 2012 Tenyu Sinjo. All Rights Reserved
.


inserted by FC2 system