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   「輪違屋」の現役太夫による道中


毎年11月の第2日曜日午前、京都の清涼寺において夕霧祭が挙行される。これは、吉原・三浦屋の高尾太夫、嶋原・林屋の吉野太夫と共に三名妓といわれた夕霧太夫を偲んで行われるもので、同寺の本堂にて太夫による舞が奉納された後、本堂前を太夫道中する行事である。同日には嵐山・渡月橋周辺で「もみじ祭」も開催されるので、2つの行事を楽しむのもいいだろう。「もみじ祭」午後の部では同太夫による「お点前」または「太夫道中」なども催される。
京都では、舞子や芸子には度々会うが、太夫に会うことはそうそうない。こういった機会に、ゆかしい日本文化に触れてみるのもいいだろう。

吉原では宝暦期中頃(1757年頃)に、格式を維持するのに多額の費用がかかる太夫、格子の位が無くなり、歌舞などの諸芸を披露しない、娼妓としての「花魁」が高級遊女となったが、京の嶋原と大坂の新町では「太夫」の階位と、置屋から太夫を招いて遊興する場である「揚屋」は残った。この置屋から揚屋行を「道中」といった。
長い時間が経過る中で、これらはもはや現存するものでは無い、と多くの人が思っているかもしれない。しかし、諸芸に通じた現役の太夫がいるのである。下の映像はその太夫の一人で、京都嶋原・西新屋敷中之町にある「輪違屋(わちがいや)」の如月(きさらぎ)太夫である。その凛とした優美な姿は太夫の名を散らすには申し分ない。

 映像を見れない場合は、こちらをクリックして下さい。http://www.youtube.com/watch?v=SDk8PdrW4tk



    京都・島原 輪違屋

上級の遊女を太夫という。その太夫を抱えるのが、お茶屋兼置屋として今も営業中である京都・島原の「輪違屋」である。かって島原は幕府公許の遊郭として、三大遊郭の一つに数え上げられた。
島原の太夫は「こったい」とも呼ばれ、正五位の官位を持ち十万石の大名に匹敵するとされた。御所において天皇による謁見を賜ることも可能であった。「こったい」とは「こちの太夫」を言ったもので、贔屓にしている太夫を「こち(こちら)の太夫」と言った説など諸説ある。


輪違屋輪違屋は元禄元年(1688)創業の現存最古の置屋(同じ島原内にある角屋は揚屋)の遺構 である。安政3年(1856)に焼失するが翌年に再建された。その後明治4年(1871)に改造されて現在の姿になる。建物は一階南半分の居室と同階北半分及び二階の宴会座敷からなる。座敷は十数室あるが、二階の「傘の間」と「紅葉の間」が主要な遊宴の場となっている。「傘の間」は襖に実物の道中傘が貼りこんであるところから、このように称されており、「紅葉の間」は壁に実物のモミジを用いて型どった部分を手彩色して紅葉を散らしてあるところから、このように称されている。傘の間には「桂小五郎」直筆の掛け軸が床の間に掛けられており、一階座敷には屏風に仕立てられた近藤勇直筆の書が飾られてある。これは輪違屋の太夫が遊宴の場である揚屋の「角屋」で書いてもらったものといわれている。屋号は明治5年(1872)にお茶屋を始めるまでは「養花楼(ようかろう)」といった。現在は置屋兼お茶屋として毎日営業しているが、お茶屋を始めるまでは太夫や芸妓を抱える置屋のみであった。日本で唯一「太夫」を抱える店でもある。
昭和59年(1984)6月1日に京都市指定・登録文化財。
*  揚屋は座敷を提供するだけで、遊女は抱えない。揚屋にいる客が、遊女を抱える置屋(寝食を行う遊女の日常生活の場でもある)に招請状を出して、遊興の場である揚屋に太夫や天神を招く。


京都島原 吉野太夫 明治時代終り 京都島原 太夫道中 大門において
京都嶋原 吉野太夫
すずりを右下(正面左)に置いて、巻紙に筆書きがなされているところ。右端には打ち掛け。明治終り頃の写真。
京都嶋原 太夫道中 大門において
華やかなりし頃の嶋原。太夫それぞれに禿が従っている。左手には花車を引く女郎と禿。明治終り頃の写真。


輪違屋 如月太夫の道中と禿(かぶろ) 輪違屋 如月太夫の道中と禿(かぶろ) 
少女二人は禿(かぶろ)。禿は太夫と一緒に行動するので輪違屋の近所の小学生がほとんど。禿が歩を進めるたびに袖に付けた鈴が「シャンシャン」と鳴る。上の動画の一番最後の部分を参考に。 太夫は手を常に帯の中に入れている。太夫は帯を前で心の文字に結ぶ。対して吉原の花魁は帯を前にだらりと垂らしている。大傘には「高」の文様が描かれているが、これは当主である「高橋」からとられたもの。吉原花魁の写真はこちらから。

輪違屋 如月太夫の道中と引舟 輪違屋 如月太夫の髪飾り
太夫の手を取っている右の女性は引舟という。引舟は太夫の着付け、髪飾り、踊りの準備等、身の回りの世話を全てする。
顔の白粉は自分で塗るが背中は引舟が行う。太夫の地毛を結うのは結髪師。当然、日常の着物は自分で着付けを行う。
頭は地毛で結っていて、重さは3kg、衣装は25kgにもなるという。髪飾りには、「べっ甲の6本組簪」、「花簪」、頭の前後左右に下がる珊瑚の「びらびら簪」が計4本、笄と櫛。当然お歯黒もしている。

輪違屋 如月太夫の道中と後ろ姿 輪違屋
右の男性は傘持ちの妓夫。左の禿(少女)の背中には太夫の名である「如月」の縫い取りが施されている。これで、どの太夫に従っているのか一目でわかるようになっている。
太夫が素足に履く三枚歯下駄の重さは片方が2kg強もある。
伝統と格式を今も保っている輪違屋。
伊藤博文の寵愛を受け、「維新の名花」といわれた輪違屋の桜木太夫は、明治42年(1909)博文がハルビンで安重根(アン・ジュングン)によって暗殺された後に尼となっている。

 太夫になるには・・・
五花街の舞妓は置屋に住み込んで踊りや花街のしきたり、京ことばや行儀作法を習得するが(仕込みの期間という)、嶋原ではこれらのシステムが無いので自前で芸事を身に付けなければならない。日本舞踊や茶道は当然として、三味線、琴などの和楽器や胡弓、唄、書道なども一定以上の技量(人に教えることができるだけの)に達していることが望ましい。だが、何といっても人と接することが好きでなければならない。ちなみに「振袖太夫」といって年若い太夫見習もいる。振袖を着ているのでこう呼ばれるが、当然未婚女性。
身長は160cm以下が望ましい。黒塗り3枚歯の下駄は高さが15cmあり、地毛で大きく結う髪に、さらに花簪などで飾り付けをおこなうため、自分の身長プラス30cm程になるからである。下駄は足の大きさが24cm位までなら入る。必要な髪の長さは、前髪が顎よりも長く、横の髪が肘くらいまで。

    フォトグラフ
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輪違屋 輪違屋の行灯(外灯) 輪違屋の観覧謝絶(一見さんお断り)の木札
輪違屋玄関。
今でも毎日営業している。
輪違屋の行灯(あんどん)。
客として店を利用するには常連客の紹介が必要。常連客は信用のおける客しか紹介しない。
「一見さんお断り」を意味する木札。
代金の支払い、客のマナーなど、信用と品位を重んじる京都の店では素性の知れない一見を断るところが沢山ある。

輪違屋の屋根瓦 菊川太夫によるもちつきの案内 元高砂太夫と菊川太夫の写真集販売
大傘と同様、屋根瓦にも当主である「高橋」からとられた文様が施されている。 元高砂太夫が指導している菊川太夫。(輪違屋の太夫ではない) 左の写真と同様、島原のとある飲食店に掲示されていた。

島原の石畳 島原の妓楼の様な料理屋 島原のお茶屋風の家
2010年11月に完成した島原一帯の石畳風道路は、平成6年(1994)に解散した「島原貸席お茶屋業組合」が残った清算金を使って改修したもの。 妓楼のような造りの家だが、実際は料理屋。ガスの元栓が閉じられていたようなので閉店している。島原内にあった。
先斗町のお茶屋さんのような造りの家。
こちらも島原内にあった。

嵐山の屋形船 嵐山もみじ祭での綺麗なお姉さん 夕霧祭
場所:京都清涼寺
日時:11月第2日曜日
10時から本堂で太夫による舞の奉納。本堂に入るには別途拝観料が400円必要。11時から本堂前で太夫道中
「嵐山もみじ祭」のひとこま。
ゆったりと屋形船が行き交う。
すごく綺麗なお姉さん。
「嵐山もみじ祭」の野点茶会にて。




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