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住友銅吹所復元模型かつて大坂の中心部、鰻谷*1)に銅吹所があったことを知る人は少ない。ましてや、それが世界中に営業活動を広げている、旧巨大財閥、住友各社の原流であることを知る人はほとんどいないだろう。
今日の住友各社の源をたどってみると、別子銅山との関わりが非常に深い会社が多い。その典型的な例が、化学工業部門と林業である。精錬所から出る煙に含まれる亜硫酸ガスにより周辺の樹木や農作物を枯らす煙害が発生していた。この煙害を無くすために、亜硫酸ガスを利用して硫酸や肥料製造を行った。これが化学部門の始まりである。
また、別子銅山における精錬過程で木材が必要になるため、周辺の木が濫伐され森林破壊が起こった。この解決策として植林が敢行された。これが林業へ発展した。今日の住友各社のほとんどは別子の銅から派生しているといっても過言ではない。

寛永13年(1636)に設けられた大坂住友銅吹所(1690年には本店と住宅も併設されて明治6年(1873)まで事業の本部であった)は当時日本最大の銅精錬工場(銅吹所)で、住友家の事業所や住宅を含めた面積は約1200坪あった。この地は長堀川、東横堀川、西横堀川に囲まれた地であり、水運に恵まれていたことと、銅の精錬には大量の水が必要であったため、ここに銅吹所が設けられたものとおもわれる。およそ数百人が働いていたという。

江戸時代、銅は重要な輸出品目であったが、その輸出用の棹銅(銅のインゴット)製作は、大坂銅座の管理下に置かれ、自由取引はできず、大坂でしか行えなかった(*2)。各地の銅は大坂の銅座に集められたのち精錬され、輸出用の棹銅は長崎へ運ばれ中国、東南アジアへ輸出された。輸出された棹銅は、銅銭や軍事用品、船具などに加工される。国内用の銅(丸銅)は、銅銭や鍋などの日用品に加工された。元禄期、産銅量は世界一となりヨーロッパの銅価格にも影響を与えるほどであったという。
この影響力に関しては、アダムスミスの「国富論」において書かれている。
泉屋(住友)の他にも大坂屋、平野屋などの精錬所があったが、その内で最も繁栄し、規模も最大だったのが、住友銅吹所であった。この当時の銅生産量は6000トンで、住友銅吹所はその三分の一を生産していた。

この地の銅吹所は明治9年(1876)に閉鎖されるが、銅吹所のあった東半分(冒頭写真の左側が銅吹所、右半分は西側の邸宅、手前の北側は長堀川)は日本庭園として整備しなおされ、後に天王寺茶臼山に移されるまでは住友家の本宅として機能していた。茶臼山に本宅が移されてからは、昭和20年(1945)まで別邸として存在した。その後、住友銀行社員寮跡地であったこの地に、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2年(1990)から平成5年(1993)にかけて発掘調査が行われた。そこからは、100基を超える精錬炉、棹銅、住宅で使われていた高級陶磁器など、数多くが出土した。このことにより、かつてここで大規模な銅の精錬が行われていたことが明白になったのである。いずれにしても、この地は寛永13年(1636)に泉屋(住友)理兵衛(第2代友以)が銅吹所を開設して以来、泉屋にとって家業の基礎を築き、繁栄させた大切な場所である。

*1 鰻谷の地名の由来は、「皇紀2千6百年記念・鰻谷中之町の今昔」によると、「往古船場の地形は當代のごとく平地にあらず。所々に谷のごとく高低ありしにや、今の道修町は近世まで道修谷という名存せり。また島の内の鰻谷も舊き名にして谷間のごとき所にてありしとぞ。」と記されているように、町割りができた元和(1615)当初、この地域は現在のように平坦なと土地ではなく、細長く伸びた起伏のある土地柄であった。こういったことから、鰻谷という地名は、やはり地勢からきたものであろう。
*2 荒銅から銀を抜くことは、理右衛門が師弟関係を結んで技術を公開した大坂の同業者(大坂屋、平野屋など)しかできなかったので、結果としてそうなった。



江戸時代の住友本邸 江戸時代の住友本邸
長堀銅吹所は寛永13年(1636)に開設され、元禄3年(1690)9月には銅吹所(精錬所)の西隣600坪も本店・本邸として併設された。すなわち、現在の敷地約1200坪の東半分が吹所、西半分が本邸となったのである。本店は、江戸時代における、住友の諸事業統括本部であった。絵図は幕末期の姿を表しており、手前の長堀川は現在長堀通りとなっている。
明治に入って、本店が富島に移り、本邸と店舗が完全に分離した。

昭和初期の鰻谷住友別邸 昭和初期の住友鰻谷邸
明治8年(1875)12月、住友の本家・本店が分離し、住友本店が富島(のちさらに中之島・北浜)に移ると、当地は鰻谷本邸となり、同12年には銅吹所跡地に付属洋館と庭園が設けられ、名実ともに本邸にふさわしい姿となった。大正4年(1915)本邸が天王寺の茶臼山へ、次いで神戸・京都へと移ったのちは、鰻谷邸と呼ばれ接待館となっていた。鰻谷邸は、昭和20年(1945)3月の空襲によって焼失するまで、往時の姿をとどめていた。

大正7年の住友邸周辺地図
中央に長堀川が流れている。この長堀川を利用して、銅が運搬された。川の下側(南側)、道路をはさんで2区画が住友邸。現在は三井住友銀行の事務センターになっている。「鰻谷東之町」は旧町名で、明治5(1872)年3月に同町名となった。昭和57年(1982)2月の町名変更にともない、島之内1丁目となっている。現在、川は埋め立てられ、大阪中心部を貫く長堀通りになっており、地下は駐車場として利用されている。かつては少し西へ行ったところに、心斎橋や四ツ橋がこの川に架かっていた。


住友銅吹所跡の石碑 住友銅吹所史跡公園 住友銅吹所の遺構
住友銅吹所跡の石碑
事務センターの東隣は史跡公園になっており、この石碑が建っている。
住友銅吹所史跡公園
この史跡跡にビリヤード場や、レプリカの銅橋、るつぼがある。
住友銅吹所の遺構
住友の銀行事務センター建設計画が持ち上がり、発掘調査が行われた。
(大阪歴史博物館)

銅吹所分布地図 荷札木簡 出土した高級陶磁器
銅吹所分布地図
上の川が長堀川で下が道頓堀川。赤の点が銅吹所。西区南堀江1丁目と浪速区幸町1丁目の道頓堀川沿いに集中している。青は古銅売上取次人。黄が銅細工人。黒が銅仲買。
(大阪歴史博物館)
荷札木簡
若狭の三幸銅山から送られてきた、荒銅に付けられていた荷札木簡。住友の文字が見える。
(大阪歴史博物館)
出土した高級陶磁器
遺跡からは、かなり上質の国産や輸入の陶磁器が数多く出土している。輸入品は中国清朝の青花磁器が多い。食器類はセットで数十客単位であり、見学に訪れた幕府高官やオランダ人の接待に使用されたと思われる。
(大阪歴史博物館)

地下金庫 棹銅の船積み 本邸の座敷
地下金庫
「勘定場」の下から出土した。東西5.2m、南北4.2m、深さ3.2m。底は花崗岩、壁は凝灰岩が積み上げられた強固なつくりになっている。
(大阪歴史博物館)
棹銅の船積み
銅吹所前の長堀川河岸から、長崎へ向けて棹銅が回漕され、中国、インド、時にはヨーロッパまで運ばれた。
(大阪歴史博物館)
本邸の座敷
オランダ人を応接した座敷。
(大阪歴史博物館)

わが国最古のビリヤード場 ビリヤード場を横から撮影 レプリカのミニチュア銅橋
わが国最古のビリヤード場
この地の銅吹所閉鎖後、明治12年(1879)に建てられた。独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものである。当初は壊す予定であったが、希少性の高い建造物であり、鰻谷本邸に残る唯一の建物であるため保存されることになる。
ビリヤード場を横から撮影
ビリヤード場玄関のアーチや円柱の飾りは洋風。屋根は瓦葺で、壁は土蔵造り。洋式と和風をうまく組み合わせた擬洋風とよばれる建築様式。
レプリカのミニチュア銅橋
明治初年、経営が極度に悪化していた住友を救った広瀬は明治12年(1879)、大阪鰻谷の住友本邸に別子産銅で製作した銅橋をかけ「事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし」と家長以下自らも戒めていた。

三井住友銀行事務センター 鰻谷住友銀行用品庫
三井住友銀行事務センター
かつての銅吹所は、約10階建ての事務センターになっている。右端が史跡公園。写真左側(南側)にも、ほぼ同じ大きさの建物が建っている
鰻谷住友銀行用品庫
左の事務センターの向かい側(北側)にある。




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