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 太平洋戦争後の新町遊廓


昭和30年(1955)頃の新町、堀江の芸妓。終戦後しばらくして茨木屋、吉田屋、扇屋など、芸妓を主体としたお茶屋が再び新町において再興を果し、進駐軍などの接待に利用されて賑わいを取り戻した。しかし、昭和30年頃から余暇の楽しみ方、接待の方法が多様化し(北新地の高級クラブ、ゴルフなど)、戦後50軒ほどあった昔ながらのお茶屋は歴史の流れの中で必然的に斜陽化、廃業していくことになった。この衰退は新町に限らず、全国どこのお茶屋でも同様の有様であった。特にバブル期、新町は心斎橋、南、北に隣接する大阪でも指折りの好立地であったため、次々と不動産屋の手に渡った。お茶屋の無くなった後には大きなビルが林立し、かつてのようなはんなりとした風情は皆無となり、最後まで残っていた「しづ家」も昭和62年(1987)に店を閉め、とうとう新町からはお茶屋が無くなった。ここにまた一つの歴史が終焉を迎えたのである。今では、旧新町演舞場と句碑のみが、わずかに華やかなりし新町廓の過去を彷彿させるものとなっている。
その後、伝統と格式を持ち、文人、政財界を贔屓客とした南地宗右衛門町の
大和屋も、企業が本社を東京へ移していくで、糊口の道を絶たれ、平成15年(2003)に閉店している。

和21年(1946)1月21日、占領軍総司令官マッカーサーにより「日本における公娼制廃止に関する連合国最高司令官覚書」が発せられ、これを受けて昭和22年(1947)1月15日、敕令第9号「婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する敕令」が公布された。これにより公娼制度は廃止されたが特殊飲食店街(赤線地帯)としてその後も残り、昭和33年(1958)4月1日からの売春防止法の刑事罰適用をもって完全に消滅した。しかし、大阪においても、飛田、松島、今里新地等では料亭や旅館などとして営業を続けている所もある。

(写真は昭和30年(1955)頃の新町、堀江の芸妓。 立売堀新町振興会十年史より)



▼ 新町の路地

新町の路地
  
 





まさかビル群がひしめく新町のド真ん中にこのような路地(ちなみに大阪では、ロージと発音します)があるとは思いもよらなかった。まるで都会の喧騒を離れた下町風情ではないか。戦前この地には貸座敷があったが、太平洋戦争による焦土化の後、路地として残ったものだ。
▼ こはぜ足袋の広告

戦前の「こはぜ郭足袋」の広告
  
 






戦前の足袋の広告。「こはぜ」とは足袋を足首で止めるためのホック(象牙や真鍮製などがある)のこと。3枚こはぜとはホックが3個あるものをいう。5枚こはぜとはホックが5個ある。
写真をクリックすると拡大表示されます。
▼ 宝山寺新地の旅館広告

戦前の宝山寺新地の旅館の広告
  
 



戦前の宝山寺新地広告。大正のはじめ頃にできた宝山寺新地だが、大正7年(1918)8月29日にケーブル鉄道が鳥居前から宝山寺間に開業すると、宝山寺への参拝者が増加し、それに伴って芸妓や置屋の数も増えた。写真をクリックすると拡大表示されます。
宝山寺新地の特徴や遊び方をマップ形式でまとめてあるので興味のある方は、こちらをクリックして下さい。



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