Tenyu Sinjo.jp
   天祐 神助  トップページ  住友財閥史  大阪ウォーク  マイダイアリー   いちびり  プロフィール


   曲輪の中の新町遊廓


格子の内側の遊女と遊女を選ぶ客遊廓は周りの町屋と区別するため、その四方に堀や塀をめぐらした。遊廓が廓(くるわ)と呼ばれたのは、城の防御のために設けられる曲輪(くるわ:廓とも書く)とその造りが似ていたからである。新町遊廓も島原や吉原と同様その四方に溝渠をめぐらし、竹垣(後に板塀となる)を立てて周囲の町家と隔絶させていた。

初期の新町遊廓は吉原町が浜に面しており、そこに出入りする船の船員がおもな客筋であったため、目印になるように汐見燈籠という木造の高灯籠が建てられた。この常夜燈は後に取り壊され、高さ5尺の小さいものがメモリアルとして置かれるようになった。

上記のように当初は船員がおもな客であったため遊廓への出入り口は瓢箪町の西大門一ヶ所だけであった。しかし町が拡張するにつれて、それでは不都合をきたすようになり、明暦3年(1657)には心斎橋筋側に東大門が設置された。さらに寛文12年(1672)に新町遊廓の負担で、東大門口に続く通路として西横堀川に橋が架けられた。町橋である瓢箪橋(新町橋)である。これにより、繁華な東順慶町筋、心斎橋筋と直接つながり、新町遊廓へのアクセス利便性はより高まった。また、これにより通りは夜遅くまで人々で賑わい、たくさんの店が立ち並んだという。

開業当初の新町遊廓は昼店で、門限が夜の9時であったが、廓が賑やかになるにつれて門限はだんだん延びて夜の11時になった。門限がくると合図の太鼓が打たれて行灯は引かれ、遊客は大門から皆出ていかなければならなかった。この合図の太鼓を「限りの太鼓」といった。

当初、新町の遊女は廓外へ出ることを厳格に制限されていたが、後になると制限は緩和されて比較的自由に出入りできるようになった。しかし吉原では上方とは違い、厳しく制限され続けた。

格子内の遊女を定める客と、ぞめきで賑わう新町瓢箪町(大坂〈大阪〉新町細見之図澪標:みをづくしより) 
 格子内の遊女を定める客と、ぞめきで賑わう新町瓢箪町(みをづくしより)

いつの時代でもそうであるが、男にとって遊所で知人に出会うことほど気恥ずかしいものは無い。知人に出会うのを恐れ気がつけば伏し目がちに道の端を歩き、キョロキョロとあたりを窺うその姿に我ながら恥ずかしくなるものだが、江戸時代の先輩諸氏も似たようなものだったであろうと推察される。地位や名誉があればなおさらのことである。しかし江戸時代の遊廓にはこれを解決してくれる手段があったのである。京の島原、江戸の吉原では大門の外に「編笠茶屋」といって、顔を隠すための編笠を遊客に貸し出す茶屋があり、顔を見られたくないものは、ここで編笠を借りて忍び入った。ここ新町では東大門の番所で貸してくれたそうである。このシステムは吉原では宝暦以降なくなったが、新町では明治になるまで続いた。冒頭画像の左端に編笠をかぶった遊客が見える。

寛文6年(1666)12月新町遊廓からの出火により8500戸焼失するという大火が起こった。この経験から大火の際に人命を確保する目的として、さらに5ヶ所の門(計7門)が設けられた。しかし、普段この5ヶ所の門は閉じられたままで、火災が起こった時にしか開かれなかった。このため「焼けば蛤(はまぐり)の口が開く」をもじって「蛤門」と呼ばれた。

余談になるが、新町遊廓の四方に溝渠をめぐらせたと上記した。その溝の清掃費を木村又次郎は毎月廓内の同業者から徴収し、一部を幕府に上納していたが、ある年、清掃費を値上げしておきながら、それを幕府に届けず、値上げ分を全て自分の懐にしまいこんでいた。これが発覚して、万治3年(1660)名字帯刀を取り上げられ、開基以来の庄屋年寄の身分を解かれ一介の楼主にその地位を落としたのである。その後、佐渡島町を除く六町にそれぞれ年寄を置いて取り締まりに当たることになった。

▼ 東大門口の新町橋と西大門口

新町橋と東大門口(大坂〈大阪〉新町細見之図澪標:みをづくしより)
  
 
西大門口(大坂〈大阪〉新町細見之図澪標:みをづくしより)







左の絵図は西横堀川に架かる新町橋(瓢箪橋)と東大門口。
右の絵図は西大門口。
画像をクリックすると拡大します。

▼ 現在の新町橋付近

現在の新町橋付近
  
 



かつて写真の高架下に西横堀川が流れていて(写真では左右、地図上では南北)、そこに新町橋が架かっていた。今、このあたりを南船場というが、町名変更以前は順慶町通、安堂寺橋通、塩町通、末吉橋通といって、東西の通りごとに町名がついていた。また、1980年代までは丼池を中心として繊維問屋が数多くあったが、現在では若者が集まるファッション地区へと変貌し、人気を集めている。ちなみに大阪では、南北の通りを「筋(御堂筋など)」、東西の通りを「通(長堀通など)」と呼ぶ。

▼ 新町橋の橋塔

新町橋跡記念碑(橋塔と大阪市による碑文)
  
 
新町橋は、寛文12年(1672)新町遊郭東側の通路として西横堀川に架けられていた。廓の中心の瓢箪町筋にあり、市内側への唯一の通路のようになっていたことから「ひょうたん橋」とも呼ばれていた。
遊郭は、西鶴・近松らの作品の舞台になり桜の名所でもあり、橋の東は、道頓堀の繁華街ともつながり、この橋の上にまで夜店が並び賑わった。
明治5年(1872)9月には橋長拾弐間(21.8メートル)幅弐間余(3.6メートル強)の鋳鉄製構アーチの鉄橋に架け替えられた。しかし反りのきつい橋であったため明治8年に改造がなされ、その後、昭和2年(1927)6月に都市計画事業で鉄筋コンクリート製のアーチ橋に。昭和46年(1971)頃、西横堀川の埋め立てにより姿を消した。
                    碑文:平成7(1995)年3月  大阪市



大阪ウォーク 新町遊廓の目次へ 5. 新町遊廓の仕組みへ  4/12





Copyright © 2010 Tenyu Sinjo. All Rights Reserved
.


inserted by FC2 system