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 昭和の新町遊廓


戦前の新町演舞場太平洋戦争開戦前の一時期、軍需景気の特需により世の中は好況を呈し、それにより新町もずいぶん賑わっていたが、中国での戦線が拡大する中で、明治41年(1909)から続いてきた「浪花踊」は昭和12年(1937)を最後に自粛されることになった。昭和14年(1939)といえば上記のように好景気に沸き、全国の花街は活況を呈していたが、その裏では国民精神総動員委員会により飲食店の時間短縮、パーマネントの禁止、ネオンの全廃、中元や歳暮等の贈り物の禁止などが決定され、さらに1ケ月後には国民徴用令が発令されるなどして軍事色は深まるばかりであった。
そして、太平洋戦争が勃発すると食料品、酒などが配給制となり、畢竟提供される食事は満足できるものではなくなり、さらに男達が出征していくため花街は色あせるばかりとなった。なにより決定付けたのが昭和19年(1944)2月に閣議決定された「
決戦非常措置要綱」であった。これにより、遊廓、茶屋(営業を続けるには陸軍または海軍の指定料亭になる必要があった)、劇場などの営業は停止となり、さらに同年8月には勅令をもって女子挺身隊制度に法的根拠が与えられ、12~40歳の芸娼妓は女子挺身隊として軍需品の縫製などに徴用された。しかしこの勤労奉仕も空しく昭和20年(1945)3月13日の大阪大空襲により新町は焼け野原となり灰儘に帰した。また、同日の空襲により、同じ西区内で新町と目と鼻の先の松島遊廓も空襲を受けて全焼し、多数の遊女が亡くなり、その亡骸は無縁仏として竹林寺に葬られている。
 (冒頭画像は戦前の新町演舞場。画像クリックで拡大表示)




▼ 現在の旧新町演舞場

現在の新町演舞場
  
 



大正11年(1922)竣工。施工は竹中工務店。構造は地下1階、地上3階建ての鉄筋コンクリート製。からくも戦災にあわず、その一部分が現存し、出版取次販売会社大手、株式会社大阪屋の正面玄関として利用されている。もともと揚屋の高嶋屋があった場所でもある。ページ冒頭の写真は戦前の新町演舞場で、浪花踊などを通して、日々稽古に励む芸妓たちの成果を披露した。
▼ 新町の芸妓たち

戦前の新町芸妓たち
  
 


新町の春の訪れを告げる「浪花踊」は、桜の咲く4月から1ケ月のあいだ新町演舞場で挙行される。明治41年(1908)に始まり、途中3年間の休演をはさんで昭和12年(1937)の第27回まで続いた。春の「浪花踊」と秋の「温習会」は、日々稽古に励む芸妓たちの芸事を人々に披露する場であった。
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▼ 曾根崎新地の北陽演舞場 「浪花踊」

曾根崎新地の北陽演舞場「浪花踊」―戦前
  
 
曾根崎新地は大阪を代表する歓楽街で、一般的には北新地と呼ばれている。元々その名の通り新しくできたという意味でつけられたもので、別段意味があるわけではなく、これは新町と同様である。曾根崎新地は河村瑞賢による曾根崎川(蜆川)の浚渫時に出た土砂を利用して宝永5年(1708)でき、その振興策として遊所等が許可された。また、米市場が遊所のある堂島へ移転することになると、堂島新地から茶屋が曾根崎新地に次第に移ってきて、享保16年(1731)には、そのほとんどが移転を終えた。近隣の米市場や蔵屋敷の関係者による遊興、社交の場として曾根崎新地は大いに栄えた。 
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▼ 戦前の資生堂広告

戦前の資生堂広告「ホルモリン」
  
 







今も昔も女性にとって最大の関心事は、いかに若い肌を保つか、ということだ。これだけは、時代が変われど妥協できないものらしい。しかし、今の感覚からいえば「ホルモリン」とはいかにも怪しげなネーミングではないか。
▼ 上方鰻の老舗 『柴藤』 

戦前のうなぎ料理店「柴藤」広告
  
 










知る人ぞ知る老舗鰻料理店の「柴藤」。もともと江戸時代に川魚商を営んでいた。私も時々食べに行くが、新町にあったとは知らなかった。戦前の広告。



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