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   九軒町の桜と餅つき


長谷川貞信の「新町九軒町夜桜」江戸時代も後半になると、客足が遠のき新町の景気に影をさすようになったため、これを打開する策として文政2年(1819)扇屋四郎兵衛の発案により廓内の九軒町に桜の樹が植えられた。さらに文政10年(18 27)には塀の側に植えられ、安政5年(1858)には廓内全域に植樹された。桜が咲く頃になると新町廓では、ぼんぼりに灯が入り、そこに太夫道中などの練物行列も加わり、夜桜見物に集まった人々を大いに魅了した*1。また嘉永年間には12月になると太夫が置屋の前で餅をつき、つき上がった餅は太夫の名が入った刷物に包んで、手ずから見物人に与えるという趣向を凝らした行事も行われた。今と違って娯楽の少ない当時のこと、この華やかな催しは当たって、普段見ることもできない太夫から餅を貰おうと、夜のうちから席を陣取って多くの人が待ち構えていたという*2。これらの努力が実を結んで、遠のいていた客足も次第に戻ってきたという。
右の絵は長谷川貞信の筆による「新町九軒町夜桜」。揚屋の前の堤には桜の樹が植えられ、引出線にあるように元禄期の俳人である加賀千代女による「だまされて・・・」の句碑も描かれている。

 *1  九軒の桜の美しさは昭和にはいってからも人々を楽しませたが、後述する大阪大空襲で焼けてしまった。
 *2  餅つきは昭和に入ってからも続けられ、配られる餅の一部にはお金が入っていたので人々の人気を集めた。


▼ 桜満開の新町遊廓

桜満開の新町遊郭
  
 









振興策の一つとして、桜の樹が植えられた。満開時には左の絵のように桜の花びらで廓一帯が包まれた。

▼ 新町の太夫道中

新町の太夫道中(みをづくしより)
  
 

最高位の太夫が置屋から揚屋へ行く道中の事を太夫道中という。道中では太夫の前方に禿を2人立て、太夫の後ろから妓夫に大傘をささせ、脇には遣手(やりて)を従え、素足に三枚歯下駄をはいて、独特の八文字で道中を歩いた。上方では引舟といって、鹿子位女郎(かこいじょろう)を連れて道中した。
傘に扇の紋が入っているので、この太夫は扇屋の抱えであることがわかる。
画像をクリックすると拡大表示します。(画像はみをづくし)
吉原の花魁道中はこちらから。

▼ 新町九軒桜堤の跡碑と千代の句碑

新町北公園の新町九軒桜堤の跡碑と千代の句碑
  
 
左/新町北公園に立つ「新町九軒桜堤の跡」の碑。かつて、ここから西のなにわ筋を越えたところまで桜並木が続いていた。石碑には「近松門左衛門の『夕霧阿波鳴渡』で知られた新町九軒の吉田屋はこの付近にあり、西鶴もそのにぎわいを浮世草子に描いている。有名な桜堤の夜桜は人々の心をなごませた。昭和55年3月 大阪市建立」と刻されている。
右/千代の句碑。 『(だま)されて来て (誠)なりはつ桜』
先に記したように冒頭画像、長谷川貞信の「新町九軒町夜桜」にも描かれている。太平洋戦争により、一時行方不明となったが、先端の(だま)と(誠)が欠けた状態で発見された。

▼ 初代中村鴈治朗生誕の地

「初代(初世)中村鴈治朗生誕の地」の句碑
  
 





石碑には『近代の上方歌舞伎界を代表する名優、初世中村鴈治朗(本名林玉太郎)は三世中村翫雀の子として、万延元年(1860)ここ新町にあった揚屋「扇屋」に生まれた』と刻されている。新町北公園の南向かい側に建っている。また道頓堀の今井の前に、岸本水府が鴈治朗を『頬かむりの中に日本一の顔』と詠んだ句碑がある。その句碑はこちらから。



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