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 島原遊郭 角屋 

角屋(すみや)は大坂新町遊郭吉田屋等と比肩しうる揚屋で、趣向を凝らした豪奢な造りは嶋原を代表し、往時を偲ばせるには十分な風格を漂わせている。揚屋としては明治5年まで営業し、それ以降は茶屋に編入されて、昭和60年(1985)まで主に1階43畳敷、主庭を愛でることが可能な角屋で一番広い大座敷「松の間」で営業が続けられた。各座敷は照明用の蝋燭(大きな座敷では数十の燭台が用いられることもあった)や油を用いた行灯の油煙により煤けているが(天井や柱は真っ黒に、襖は描かれている絵が判然としないほど)、建物は揚屋建築としては唯一の遺構で昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定された。

平成元年(1989)には「財団法人角屋保存会」が設立され、建物と保有する美術品の保全につとめている。平成10年度(1998)からは「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開し、その歴史・文化的価値の活用を行なっている。平成22年(2010)4月1日には上述の「松の間」から臨む臥龍松(がりゅうのまつ)のある主庭が「京都市指定名勝」に指定された。

維新時、角屋は朝廷側の勤王志士達に密談の場としてよく利用され、西郷隆盛久坂玄瑞らが鴻池などの豪商から資金を調達するために彼らを招いていた。また、志士達を探す幕府側の新選組乱入により、建物の随所に刀傷を加えられてもいる。そして、その混乱を避けるため角屋は1ケ月間営業停止に追い込まれた。

太平洋戦争時、戦況が刻々と悪化するなか、昭和20年(1945)になると京都市内でも空襲による延焼を防ぐため家屋の取り壊し(建物強制疎開)が始まった。角屋も取り壊しの対象になったが、明治維新の元勲(西郷隆盛など)も利用した歴史的価値のある建物であることを訴えるなどしたため、取り壊しは延期となり、このまま運良く終戦を迎えた。ところで御池通、五条通、堀川通の道幅が京都市内であるにもかかわらず異様に広いのは、この時期に行われた建物強制疎開によるものである。

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島原遊郭 角屋 江戸時代の図会
江戸時代に描かれた角屋内部の図会。かなり詳細に描かれており、現在の配置とほとんどかわりない。一番右が街路で、一番左が大座敷の「松の間」と主庭の臥龍松(がりょうのまつ)。天明4年(1784)描かれたもの。
 
揚屋の定義(揚屋とは)
揚屋は座敷を提供するだけで、遊女は抱えない。揚屋にいる客が、遊女を抱える置屋(寝食を行う遊女の日常生活の場でもある)に招請状を出して、遊興の場である揚屋に太夫や天神を招く。また客の要請により芸妓や幇間(たいこもち)も迎えるが、鹿恋以下は迎えない
揚屋には台所が設けられており、自家でつくった食事を客に提供することができる。さらに1階の大座敷に面する所には必ず
庭と茶室が設けられている。これらが揚屋建築の大きな特徴でもあり条件ともなる。お茶屋には、これらのものが備わっておらず、座敷を貸すだけで食事は仕出しや出前となる。

吉原では宝暦期中頃(1757年頃)に格式を維持するのに多額の費用がかかる太夫、格子の位が無くなり、歌舞音曲、お茶、和歌などの諸芸を披露しない、娼妓としての「花魁」が最高位の遊女となった。それにともなって揚屋も無くなったが、島原や大坂の新町遊廓では太夫の階位と揚屋が明治まで残った。

現在島原でお茶屋を営業しているのは輪違屋のみで、その建物は最古の置屋の遺構として、昭和59年(1984)に京都市指定・登録文化財になっている。江戸時代には太夫や芸妓を抱える置屋であった。


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